アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

長いけど。話を聞くってこと。自身を優先すること。

なんか親が偉そうにものを言ってくるのが気になっていた。そんなに偉そうに「指導」されるってことは、自分にまだ「分かってない」ところがあるということなのかな?と思ってしまっていた。人生の考え方みたいなところである。
自分で何か気になっているということは、まだ、分かってないから自分で気になるんだろうか?って思って、指導を甘んじて受け入れてきた。確かに分かってなかった。
分かってなかったというのは、
自分が本心や言いたいことを遠慮し、我慢してきたからこそ、その様子を見て、「まだ分かってないな」と親が「判断」して、「それに応じて」、「合わせて」、「分からせるための指導」をしてあげてる、っていうつもりで親が言ってきているのを気付かず、しかもそれを、そもそも導き出しているのが自分だったのだということを、分かってなかった。
こっちはこっちで「向こうがそう言いたい、指導する役割・立場でいたい」って親が思ってるみたいだから、それにしばらく合わせなきゃならないのかな、って思ってきた。嫌だけど。改善したりするのかな、と。分かってくれるかな、と。前も「そうじゃないんだけど」って弁解したら、「こっちはお前のために言ってるんだ」って言われたから、「やっぱりそれじゃあ指導される自分であり続けなきゃならないのか」ってこっちは思ってきた。
子どもに対して指導する親自身がその場で「生きがい」を感じているみたいに感じられたから、それを壊しちゃいけないな、という考えからこっちは、言うことを聞く子どもを演じてきた。その理由の大きな一つには、「自分にも分かっていないところがあるみたいだ」という直感もあったのも確かだ。
そしてそれは、先も言ったように、自分と自分の生活は、自分の気持ち・都合が最優先なのであって、
それを妨げるような内容や部分は、 断ればいいのに、あるいは、断らなきゃいけないのに、断ってはいけないと教えこまれて、そのようにしてきた。それでは、自分のしたい本心は押さえ込んでしまい、いつまでたっても本心は叶えられず、最低限の自分の人生まで実現できない、幸せになれない、という直感である。
自分の犠牲か、人の犠牲か、ではないのである。
自分を満たしたら、人にも助けになることを、できること、できる範囲、向いていること、したいことですればいいのである。

人間は、成人すれば、大人である。
子どもを生殖的に産めば、親になれる。
その通りである。
ただ、大人になったことや親になったことと、自分の気持ちを優先するか人の気持ちを優先するかという二者択一が正しいのか、というテーマの事実は別問題である。そもそもが自分の気持ちや都合を満たしてから、余裕があれば、相手の都合を聞くのでいいのではないか、それに親とかが今現に接して話しているのは、こちら、自分のことではないのか。決して親の人生観を話し聞くための話題ではない。親の人生観を賞賛するために生まれてきたわけではない。親のいいところは、認めるし、最初から否定するつもりの赤ん坊もいない。自分の人生の話なのに、親が自身の人生論を認められたくて、それを強く言ってくるから、「僕の話は?…」という状態なだけなのだ。

思えば、自分の周りは、自分に甘えてくる人ばかりだ。苦労をかけて、僕にだけ背負わせてくるが、しかもそれにおまけでついてくるのは、文句や、当たり前だという態度や、軽んじたり、バカにした態度だ。
そう、思えば、自分がそれをシナリオとして想像していたのだ。そうなることで、みんなの犠牲になっている自分。そういう意味で「特別」で「愛されるべき」自分…。
そして、その次には、犠牲にならなくていいよ、と言ってもらえることを期待している自分。誰かが分かってくれることがあるのかな、と考えてる自分を実感するための自分。
本当に誰一人犠牲になるべき人なんかいなくて、僕も人なんだから犠牲者になる必要がないのが本当に本当だったら、僕が、自分が犠牲になるようなことを言ったり、素振りを見せても、犠牲になるようなことが相手も分かってて敢えてそれをお願いしてきたり、求めたり、ひいては甘えたりすることはないだろう、という仮の想定を立てたのである。「性善説」である。それも、おめでた過ぎの…。
現実の予想では、ずっと多分甘えてくる。で、いつしか自分が耐えられなくなって、犠牲になる無理さを自分の人生を通して証明する。そしてそれでは、上手くいかず、誰も特別得をしないし、何より自分が消耗しただけである、ことが立証される。だから、自分を優先するべきという結論に至る。
だって何度言っても分からないんだもん、話聞いて!気持ちを分かってって言ったのに、こんなにそちらの言うことに合わせて頑張ったんだよ。って言うのが最終着地想定点。
親「だったら、最初から、言えよ。嫌だとか、やりたいのが、別にあるって」
僕「言った」
親「(言葉に詰まる)言った?よく聞こえなかったのかも」
僕「強くは何回も言えなかった。遠慮した。怖かったし、怒られるのも、嫌われるのも、お父さんへの否定って捉えられるのも、心配だったから」
親(なんともいいようがない感じ)
「そんなことで、ずっと考えてたのか…」
みたいになるかなって、想像だけど。
だったら話し合えばいいじゃんって思うけど、うちの場合、ほぼ問答無用だった。上に書いた理由で、言うに言えなかった。あとで言おう、みたいな。でも寿命が誰しもあるし、生きてても、もうそのこと忘れてるかもしれないし。こっちは覚えてるけど。後から言っても、思い出してくれても、再度感情として実感できる訳ではないし。
やはりその時、言って、反応を受けて、感情を感じないとだめなのである。もとに戻して!はできないから。

結論、「無駄な時間を過ごした」。
本心の自分は、普通の日常の日に、気付く。もう、最初から気付いてたけど。本心に気づくのは先送りだと、薄々というか気づいていた。それは、確実に時間がかかるが、本来時間をかける必要もない。今本心がある。でも、それを相手に聞かせてない、って気付いてた。
一回やむなしに封印したけど、本心を認めていいって思える場面がくる。それも予想してた。その時でいいや、って封印したとき思った。それが、遠回りの原因。
結局、自分を最優先することが真実。ましてや、自分の人生のことであれば、尚更。
だってそもそも、親が、親の人生観や希望を自分に押し付けてくるのは、親の都合だから。
人は誰もが、自分の都合を最優先したい。「人に犠牲を払わせてでも」…
自分の都合を優先することが、人の犠牲の上に成り立つものなのかどうかは、別の議論である。
答えは、自分の都合を優先することは、「人の犠牲の上に成り立つものではない」。犠牲は必要ない。犠牲は伴わない。
親も自分の人生観を認めて欲しいだけだ。それは、認める。ただ、今の話している話が、子どもの人生の話しなのかどうか、ということで、子どもの人生の話なら、子どもの話を聞かなければ話にならないということだ。俺はこうだ、って話をしても悪くはない。ただ、「ふーん」って子どもが聞いた後は、子どもの考え、気持ち、立場を、聞かなければならない。
因みに、人はみな、人情は一緒だろう。ただ、それにどれだけ素直かどうかは、場所ひいては、人によって違う。そういう意味で人情は同じだけど、人情に素直かどうかという点では、同じでなく、違いがある。ならば、信じるほうの人になればいい。
なぜ、こんなに理屈で説明・証明することにこだわるかといえば、親が理屈でこちらの気持ちを封じ込めたからだ。そのつもりはなかったのだろうが、親も話すのに夢中で、一番自身のことを分かって欲しいのは子どもだから、必死に話していたのだろう。必死さは伝わったから、ここは、って敢えて黙って譲ってみたのかもしれない。

僕は今、苦しい、そして、明るい兆しとの間で揺れている状態である。
でも、自分を自分で大事にしていいという実感のスタート地点に立ったところだ。
別に人の人生を否定したい訳ではない。
ただその前に自分の人生を優先する。
もし、この価値観を共有できる仲間たちができて、もしくは、なんだか楽しそうだから、仲間に入れて?!って仲間ができたりしたら、それが、生き方として今自分が望み、想定しているこの先の毎日であり、人とのしたい触れ合いである。

パシりにしていい人なんかいない、っていう基本を分かっている人達と付き合いたい。誰かが買いに行くにしても、その基本が当然に分かってて共有していて、頼むにしても、相手の状況・立場・気持ちを聞くのが必要、前提であるという、最低限のことを理解している人達と。別に昔からパシりにされてた訳ではないが。いえ、でも、大人になってから、されました。されたことがあります。今でも、「こういう時は、僕に頼めばいいや」っていう固定的な見方があるところがある。優しく言われることはあるが、こっちの都合は聞かずに、突発的だったりすることごある。
その場合、対応するときリスクがある。テンパる可能性が払拭できないから。そのやり方でいいって思ってる考え方の持ち主であり、考え方を変えられないだろうと予想されるということが、今後付き合っていくことを想像すると、心配である。
子どもの時、いじめてくる奴が、1人か2人はいた時があったが、全員と仲が悪い訳ではなかった。よく遊ぶ友達も多くいた。
だけど、大人になるに近づいて、犠牲が前提?みたいな場面に遭遇することがより多く見られるようになり、疑問が生じてきた。
それは嫌だったが、解決するには背負って「努力」すれば、人は分かってくれたり、解決できたりするだろうと、勝手に解釈し、一人で悲劇のヒーローぶった。
その結果が、今の無駄な結果だ。
気づいただけでもよかった。
ババ抜きだ、これでは。
壮大で無駄な悲劇(喜劇)を演じてきた。悲劇の役者がどうなるか、自分で確認したかったというくだらなく、小さな背景。
無駄と分かったのが収穫と言えば収穫。笑
立派な完全な人なんかいないと思うのだが、一人で立派なヒーローになろうとするのも、逆に悲劇を背負ってダメになるのも、どちらも結局「損な役回り」でしかなく、「ババ」を引いたことになる。どちらも両極端。重荷を背負うことに存在意義を見出す極端な役回り。
でも、それは、ババを想定した世界観を自分達で作ったから、ババのカードが存在理由が発生したからだろうし、それと、本当に世界にババが不可欠なのかどうかが、検証されたかどうかは別である。

余計なお世話は、余計なお世話である。
それに自分が酔いしれたいからだし、自分の都合だから。相手が見えていない。自分を見ている。
人が求めているものを提供するのは、人に喜ばれる。相手を見ているから。求めているものが何かを相手に聞いているから。
でも、ここが肝要だが、自分ができること、得意なこと、したいことで相手や人が尚且つ求めているものを提供すれば良い。
逆に、自分ができないこと、考えを共有できないこと、無理なこと、では何も提供できない。
陥りやすいのが、できないこと、したくないこと、無理なことでも提供しようと「努力」することが、「いいこと、本当の奉仕、美徳、繁栄の道」と勘違いすることだ。それは、かつてだろうが、自分の安心は築いて完了して、余力を世のために注いだ人の様子や、その話を「訓示」のように言葉でだけで聞いて、 「見習うように」と指導されたが、自分はまだ自分の安心を築き終わっていない段階なのに、「できないことでも、努力する気持ちが大事である」と捉え、世のために余力を注いでいる余裕のある人に憧れ、それが「いいこと」だと強く教えられ、余裕のある人の最終到達地点・成果だけ「今」手に入るというか、そう努力することが「いいこと」だと思い、期待し、あるいは親や先生に褒められると思い、背伸びして求めてしまった結果である。内心はそうである。
余力をできることで提供するのは、余裕のある人である。余裕があるということは、できないことでは余力は生まれないのだから、できること、したいことで、まず自分が満たされて、時間的な部分等、余力が生まれて、一息ついて、もしその気があったら、やってもいいという程度のことである。
その順番を飛ばして、背伸びしてしまうことは、背伸びである。
考えるべきは、まずは、自分のことである。多くの時間と思考と肉体的なものを、自分のことに集中することである。
今の幸せである。
さっきの、「自分を優先」するべき。ということである。
それを、自分のことをやらず、他人のこと、都合を優先して無理してやってしまった人が、「自分を犠牲にしたのに…」という意識のある人であり、それにどこかで疑問を持ってはいるが、覆せないし、覆したくなく、上手くいくと信じたいから、人にも特に自身の子どもに、その考え方を要求する人になって、言動する。それを通して自分に納得したいという意識もある。そういう人は、人や子どもを褒める基準も自分の人生観が基準だ。「俺の人生観の基準に合ってるから、褒めてやる」という姿勢である。
こっちは、「ふーん」としかせいぜい言えない。
だってこっちの話は聞いてないから。
十中八九、仮にいい人生観だったとしても、それを賞賛するのが、こちらの役割ではないし、今はこちらの話ではないのか?
そんなのでは、結局、こちらの欲しいこと、したいことは叶わずじまいで、ただ親を賞賛するための子ども。以上。ていうことである。
親の想定では、「俺のことを賞賛してくれたら、ご褒美に、俺の人生みたいな人生を送るヒントを伝授してあげるぞ」
ということらしいが(言動・様子から分かる)、それが、仮に「いいもの」を提供してくれるのだとしても、こちらの様子を聞いていない時点で、こちらのニーズに合わせたものではあり得ない。偶然、ニーズに合ったものだとしても、それは偶然であって、これからニーズに合う可能性は限りなく低い。
でも、お父さん!僕が子どもの時、欲しかったミニ四駆、しかも人気のやつ、前欲しいって言ったから、買ってきてくれたんだよなぁ…
でも、人生のこと、職業のことは、僕の一生のことだからなぁ。一番重要なことだからなぁ。それも、ニーズ聞いて欲しかったなぁ。叶えて欲しいんじゃなくて、ニーズの話を聞いて欲しかったなぁ。ゴリ押しすれば聞いて貰えたかもしれないけど、ゴリ押ししなくても聞いて欲しかったなぁ。
叶えるのは、自分だから。それこそ、その部分こそ自分の居ることの醍醐味で、それが自分の人生なんだから。
俺の楽しみを奪った感。
職業まで、用意されたら、俺は何の為に生まれてきたの?遺伝子を伝えるメッセンジャーとしての器としてだけの存在?
それもあっても、他に人生の楽しみもあるでしょ?自分で作るっていう楽しみが。
その楽しみが、自分の職業を自分で選ぶということのような気がするんだけどなぁ。
因みに、今の職業を親に用意された訳ではありません。親に勧められただけです。
自分で決断しました。その時、「そのうち(今まで書いてきたようなことに)改めて、自分から直面し、気づくだろうなぁ」とは、頭の片隅で思ってました。
それが、一周して巡ってきたのが、今日であり、昨日や最近の日々の心境の変化です。


期待してくれるのは、嬉しい。
応えたい気持ちだけはある。笑
だけど、全部応えることができるか、応えるべきかは、別である。仕分けしないといけない。
とかく、要求はエスカレートする。
それに応え続けようとする「いいヒト」は、疲れ果て続かなくなるし、相手も、それでいいと思っている以上、第二、第三の「いいヒト」を求め続ける。それは、当面は自分には関係ないといえば、関係ないが。でも、もう日本人は気づいている。「この考え方、限界」って。