アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

頑張らない

食料があれば、生きていける。
だから、食料を作るなり、確保しなければならない。では、我々は食料を作っているだろうか?
農家で自家消費分も作っている農業者は、自分の食べる分を作っているだろう。
しかし、それ以外の人は、多くは、そうではなく、食料と交換するための価値を提供するための作業をしているだろう。いわゆる価値の提供であるところの仕事である。
では、その仕事は、価値を生産するための、作業として脳や心、体を活用して、作業をしているだろうが、その作業に脳などのメモリをどれだけ使っているだろうか。脳の半分以上は、親に褒められたい、頑張らなければ、仕事ではない、ということで、占められていないだろうか?
それは、作業の目的を達成するために、頭と心を使っているというよりも、親にこうしないと愛されない、という心配に似たことで、占められているということではないか。
では、頑張るために生まれてきたのだろうか?
生まれてきた目的・意味は議論することは必要なくても、生まれてきた以上、食料を食べてエネルギーを摂取しなければならないことは、明らかである。では、食料を獲得するために仕事をしているのだとしたら、脳や心をそのために使うことを考えるべきではないか?ではなくて、親に気に入られるために、頑張らなければならないという考えに頭と心を占められているのだとしたら、作業効率は低下することは明らかである。
そこで、命題だが、仕事を頑張ることと、愛されることはイコールだろうか?
頑張れば、褒められるのは事実だが、そのためにずーっと頑張らなけばならないのではないだろうか?
その必要はあるのだろうか?そのまんまで愛されているのではないだろうか?
ということが一つ。
それに加えてだが、食料交換手段としての仕事の成果品の生産と愛されたいという願望は別問題である。
頑張るのが目的なのか、成果品を生産するのが目的なのか、はっきり区別したほうがいい。自覚が必要だ。
愛されるかを心配しているなら、心配はない。親に愛されて生まれてきたから。
成果品を生産することが目的なら、それは仕事だから、脳と心と体をそれに集中させればいい。
それとこれは別問題。
一番大事なのは、自分の体の健康である。それは、心を大事にすることでもある。
それは、常に忘れないほうがいい。
頑張らないこと。自分が健康でいることを最優先すること。食料を食べて生きているのは、健康を保つためである。
そのために健康を害しては、元も子もないではないか。
楽に生きるために、ご飯を食べて生きているのである。怒ったり、落ち込むためにご飯を食べている訳ではない。
怒って人の気持ちを引き付けようとしたり、頑張ったりすれば、愛されるのではない。初めから愛されているのである。
答えは出ている。探している人も沢山いるのだが。