アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

勇気を出して笑顔を見せてみよう

僕達は、この経済社会において、主にサラリーマンとして生活・仕事をしていくための振る舞いやマナー・考え方を目上の人などから「教わって」きた。
例えば、頑張ることとか、遠慮するとか。そういったことである。それは、主にどう人に見られるかといったことに視点が中心に置かれているものと思われる。つまり、こうしとけば良く人に思われる、とか、せめて無難な線であるっていうことである。あるいは、「身分相応」とか思っていて、「わざと」古く見える服装をしてみたりしている。
それを「そう目上に言われたから」とか、「そう考えるように仕向けられたから、まぁ仕方なくそう考えている」っていうことにしているのは、気持ち的には「あきらめ」である。
結構な割合であきらめている人が多い気がする。
確かに目上から言われたら、子どもの時は特に「そんなものか」と余り考えずに受け入れてしまう。
しかし、それが、もし、目上が目下を管理するのにしやすい「仕向け」、理屈、編み出した仕組みだとしたら、まんまとそれにハマっているだけなのである。なぜなら、あきらめるより、期待してれば、中には笑顔を見せている人が必ず一定数いる。
いくら生活があるからといっても、小綺麗な格好位はできる。
笑顔をいつもできないことは、諸事情で分かるが、自分がどう人に見えるかは、自分でも分かるはずだ。それに対する反応だということも分かるだろう。
相手が笑顔でないことを、自分への当てつけと考えて、余計笑顔でなくなったり。
自分を相手に投影していることに気づいていない。それに夢中になる余り、笑顔を貰いたくて、じっと相手の顔と様子を伺って、自分がどう見えているか、どんな表情をしているか配慮できてない状態の人もいる。そういう人はだいたい、相手が目を逸らしたり、「何?」みたいな怪訝な顔をしたりすると、自分の心、つまり、笑顔は欲しいけど、見せてももらえるとは限らないという諦めの心、または、傷つくのは恐いといった気持ち、自分なんか大したことないという低めの自己評価、そしてそれを見透かされたら困るので強がって見せたり、うまく相手が笑顔を先にくれたらいいなっていう気持ち。それらを見通して、指摘されたような気分になって、思わず、反発してしまったり、強がって見せてみたり、今の社会でいえば、頭がいいことが評価されたりすると思うなら、そういう振りをしてみたり、トークの中身を自分が優先的な趣旨に持っていくことが、有利なことだと思うなら、そういうトークを展開して聞かせてみたり。いろいろ手段を凝らすのだが、そうすればそうするほど、正直さを欠いていく。本当の感情が置き忘れられてしまう。そしてまた、同じような状況に遭遇したら、似たようなことをしてしまう。もちろん、仲の良い友達とかといる時は、心を開くだろう。ただ、問題は根本的には解決されていない。
受け身で、笑顔を相手がするまで待つ、という姿勢である。それは、癖になる。自分でも本心が流れてしまって分からなくなってしまう。自分でそれに気付くまで、ずっと同じことの繰り返しである。
ただ、安心していいと思う。人は人を見て、ありのままを分かってくれて、認めてくれるから。
ただ、言わないだけである。
もちろん、言うタイミングがないから、言えないというそのことも誰もが分かっているということも、僕も承知している。