アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

外向きの意識・内向きの心

人と会う時・接する時、相手に伝わるようにすることに注力を向けるスタンスと、自分の内心でどう思っているかを気にするスタンスがある。
いわば、心が外向きか内向きかということである。
それは、表情や言い方に表れる。
相手にどう伝えようと考えている人は、相手にとって自分がどう映るか、自分の言い方がどう相手に伝わるかを意識している人である。
おしゃれな人はその典型だろう。
一方で、自分の心でどう思うかにベクトルが向いている人は、自分がどう思っているかを、相手に感じさせようと、気づかせようと試みることに主眼を置く。いわば、自分中心である。自分中心でもいい。ただし、それは明るい気持ち・考え方に限ったほうがいい。
例えば、人のことを理解しようという心で人に接するのではなく、自分の考え・感じ方を分かってもらおうという気持ちの方が心の中で勝っている場合は、それが明るければ、相手にとってもハッピーだが、それが暗い考え方の場合、いい迷惑である。
苦労をアピールする人や、人に尋ねているくせに、人の真意を聞こうとするのではなくて正しいことはこうだよなどと上から目線で自分の意見だけを押し付けてくる人は、相手のことを見ているのではなくて、自分が満たされない、理解されたいという気持ちが優先されている人である。
もちろん人は誰でも理解されたい。
それは否定できない共通の根幹的ニーズである。
しかし、今している話が相手のことなのか、自分のことなのか。相手に何かを尋ねているのなら、相手の話を聞いて理解することが今の主眼であり、マナーである。
逆に自分の番になったら、自分の話を聞いてもらうターンである。それは十分聞いてもらっていいだろう。
わかりやすいのが、人の話を聞いている時に、「ふーん」という人である。「ふーん」は、聞いているようで、「自分はそう思わないけどな」という意図を伝えたい人である。それは、相手を理解しようとしてるのではなくて、それとなく、自分の価値観へと話を持っていきたい人である。相手の話を聞く瞬間なのに、自分のほうへ注意を向けようと転換しようとする人である。

また、人と会う時、人が大変そうなのが分かったとしても、自分も大変になる必要はない。それでは、気苦労の多い人である。とかく、人は人に合わせがちだが、それは、自分の中にも大変さを今感じているところがあるから、自分のほうが人に同じものを感じて、同調するほうを選んでいるだけである。苦労を共有する仲間を見つけた気分であろう。つまり、人が大変そうだからといっても、一緒に険しい顔になる義務はない。自分が普段から明るくいられているのなら、そのままで明るくいていい。むしろその方が、人にとっても前向きになるきっかけになるし。

当然だが、人には表に出したことしか伝わらない。逆に表に出したことは伝わる。だったら、人は理解されたいものなのだから、理解しようとする自分の気持ちを伝えよう。明るい気持ちを見せられれば、もっと良い。明るい気持ちでないときでも、人を理解しようとは出来るし、その気持ちは伝わる。睨むような顔になってしまったとしても、何だ?って睨み返されたら、「あ、こっちの顔見てくれたんだな」って思って、ニコっとしてもいい。そうすれば、人も分かってくれるだろう。

よく最近、「人の目を気にしなくていい」ということが、本などでもいわれる。人目を気にしすぎの日本人ならではの、最近の反省だろう。明らかに変わろうとしている。それはいいことだ。ただ、今までは、「人が怒るんじゃないか」、「ひんしゅくを買うんじゃないか」といった、悲観的な点に目を合わせた昔気質の日本人ならではの「奥ゆかしい」考え方を
基にした「人の目を気する」姿勢を、少しは休ませようということであろう。それは、その通りである。
ただ、おしゃれなどをして人に明るい気持ちを与えるのはいいことだ。人を理解する外向きの姿勢も前向きだ。ビクビクする人目の気の仕方から、おしゃれに見られる人目の気の仕方など明るい視点へと変わればいいのではないか。
確かにひんしゅくを買うことをすれば、ひんしゅくを買う。ただ、だからといって自分がいつもひんしゅくを買うことをしている訳ではないはずだ。
リスクを極限まで押さえるための考えだが、親や教師に、「こうしてはいけない」ということを中心に言われてきたことが、日本人においては多い。いけないことはいけないことは確かなのだが、それを言うことが多過ぎて、それを主に多く言わなきゃ人っていうのはダメな不完全な存在だっていいたげな言い方が、日本人を暗くしてきた。悲観が悲観を生む影響を与えてきたのだろう。

人はこちらが何を思っているかなどは、多くは関心はない。あるとしたら、自分がどう思われているかということである。だから、人と向き合ったら、とりあえず人を見よう。それでいい。人がどんな状態か理解しようとすれば、人は自分が注目されてることを感じるし、こちらのことは人を理解しようとする人だって思うだろう。こちらの表情のことはどう捉えるかは分からないが、まずは理解しようとしているから、好意的にこちらを捉えて、最後には前向きに解釈してくれるだろう。見るのと見ないのでは、全然結果が違うのである。こちらが笑顔の状態でなくても、まあ、普通に見る分には「まぁこの人も大変なんだな」位に前向きに捉えてくれるだろう。
だから、内向きにならずに、外向きにとりあえずなろう。人によって反応は違うかもしれないが、まずは理解者としては、相手に認識はされるだろう。

人がこちらの欠点に注目してきても、それに囚われることはない。欠点に目が向くということは、相手にも同じような気にしている欠点があり、それに悩んでいるということである。だから、こちらを鏡にして、どう反応してくるか、こちらの態度に興味津々なのだ。いわば、試されているのだ。そういう時は、怒らずに、明るく佇んでいればいい。相手も理解者の素養があるなら、友好的になるだろうし、そうでなければ自然に去って行くだろう。