社会の変化に対応する☆
社会の変化に対応するか?
今から対応するか?
それとも対応しないか?
ていうか、そもそも社会の変化は起きるか起きないか。どっちだと思うか?
もし、今から、対応するなら、対応すればいい。
では、今の心情と考えてることは何か?
強いだろー?って見せることを考えてるか?
これでいいんだよねって考えてるのか?
一日のうち、どれだけを「強いだろー」、「こうだよねー」って考えてるのか?
どれだけを、変化への対応で考え、思っているか?
はっきり言おう。
怒っても、自分は変えられない。
不満を人に見せても、自分は変わらない。「自分は正しいのに、間違ってる人がいる」と考え、不満のままだからだ。ちなみに、他人に自分の価値観を押し付けるのは、無理がある。
「こうだよ人生は」、と人に求めても、自分は変えられない。
無理して、「いい人だね、あなたは」といっても、その実、「私の考え方と同じだから、オッケーだよ」って意味で、自分の価値観と同じことにしたくても、同じとは限らない。
全てのこちらのことを知っているわけではないし、「いい人」の意味が、格差社会は無視して、下層同士で群れていくことを肯定する意味なら、賛同できない。あやふやにしているからだ。
格差社会があるか、ないか、
ないと、信じたいのかもしれないが、願望と現実は別である。
こーしたら、喜ばれるかな、と思って、喜ばれたとしても、もし、自分を変えなかったら、自分は変わってない。
社会の変化に対応するか?
今の己のあり方、考え方が、古いなら、己を正当化してたら、それは、己は変わらない。
結果、社会の変化に対応しないことになる。
なぜなら、対応する気持ちがないから。
それでも、社会の変化は起きている。
社会の変化が、広く浸透した時に、変化による恩恵、例えば新技術・新サービス・発展した商品の消費者、購入者になることはできる。
ただ、それは、提供者ではないから、消費者としての側面が中心である。便利だねー、楽しいねー、すごいねー、とは言えるかもしれないが、言わば、受け手側である。
今の日本では、信じる自由がある。
同じ価値観を信じるものは、似たことを信じてるだろう。
信じるものを強制したら、信じる自由に反する。
だから、何を信じても自由。
ただ、格差社会があるかどうかは、それを見ようとするか、見たくないか、によって、認識されるかどうかに違いがでてくる。
議論をして、お互いに得るものがあればいいが、益なし、なら、議論は不毛である。