アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

マイナスからの出発とゼロ地点からの出発

大変な思いをすれば、報われるとか、苦労すれば褒められるとか、いう考え方は、はっきり言ってマイナスベースの考え方だ。いわば、マイナスからの出発である。なぜなら、苦労しなくても愛されているからである。苦労しても自分も苦しいし、世間にも
苦労自体は足しにならないし、特段はかどるわけでもない。 それを、苦労してみるのは、クセであり、そのクセは苦労したときに、慰めてもらえた、関心を持ってもらえたという喜びの思い出に基づき、遡れるだろう。
苦労することが、自分が貢献したという実感を感じられたり、苦労したことそのものが、意味があると考えるのは自由だが、一つ言えることは、それはマイナスからの出発であるということである。ゼロ地点ではない。マイナス地点なのだ。苦労して何かをやったことはいいのだが、苦労すれば、即ち褒められるのだという見方自体が、悲観ー即ちそうでもしないと愛されないという見方ーに基づいていることに気づいていない。そろそろ気づいてもいいのではないだろうか。
苦労しないほうがいいに決まっているのだから、苦労しないようにすればいいだけのことである。
それと、褒められたいというのは、別事項である。
褒められたいのは、認められたい願望である。そのままでは愛してもらえない、という傷付いた恨み、勘違い、拡大解釈による。そういう空気を大人がそれとなく押し付けてくるし。
私が言いたいのは、苦労しないと、または苦労さえすれば、報われると、反応がイコールで結ばれていることが、微妙であるということ。そういう条件反射が作られている。しかし、その考え方では報われない。
そろそろその事実と自分の曲解に気づいたほうがいいのではないだろうか?
ちなみに、プラスマイナスゼロからの出発が、本来の自然体である。それをわざわざ自分からマイナス地点からの出発にして、それを楽しんでいるー褒められると期待しているーという自虐的なムダは、実は永遠に報われない無限ループである。
本当をいうと、ゼロどころか、生まれながらに愛されてるのだから、むしろプラスからの出発だと思うのが、素直な愛されてることに気付いている人の発想である。それに気づいている人は幸せな人である。
待っていて何かが分かると思ったら間違いである。
自分が発信しないと何も得るものはない。今幸せでなければ、何かが間違ってるから、幸せでないのだ。訂正するべきところがあるから、幸せでないのだ。自分は正しいと正当化しているうちは、訂正ができない。訂正する気がない。でも、自分が発信して、そのリアクションを解釈する姿勢が持てるなら、そこからは、他人軸ではなくて、自分の心になる。そこで自分の本心と向き合えることとなる。自分軸である。
自分が発信すれば、応えてくれる人がいる。
前には道が開ける。
人が手を差し伸べてくれ、一緒に歩こうという気になってくれる。いいことなら、人が共感してくれる。

あと気付いたほうがいいのが、苦労すべきとか苦労しないと愛される価値がないとかの考えを押し付けてきた親とかも、完璧ではないことだ。完璧なようにみせるかもしれないが、そう見て欲しい感はありありなのは確かだが、そう見てあげたいが、完璧なフリは、虚実である。そう見てあげるというのは、サービスかもしれないが、優しさではない。虚実を固めてしまうからだ。それが、素直さでない以上、冷静に考えるべきで、完璧だと親を見てしまってはいけない。親にしてみても、子どもに完璧に自分を思ってもらうことは、いいこと、メリットがあることだと信じこんでいるだけなのだ。しかし、そんなわけはないし、完璧という期待には応えられない。親もその親(我々の祖父母)にそうされてきて、押し付けられた感もあっただろうから、自分の子どもも親からのなんか腑には落ちないけど、完全否定まではできない、したくない押し付け、親を完璧に見て尊敬すること、を同意を求めて押し付けてくるのだろう。
明るいことの期待には応えていい。それも、できることであるならば、である。
できない期待は、向こうの歪みに基づく過剰期待で無理難題である。向こうの勘違いに合わせる必要はない。できないことはできないと応えることだ。笑って断っても、断固として断っても、それはその場でいい。要は断ればいいのだ。