アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

「我慢」という言葉が辞書からなくなる日

「我慢」は、よくない。
やりたくないことを、やることを我慢というのだろう。
もしくは、やりたいことをできないと思って、やらなかったり、代わりで済ませたりすることを我慢というだろう。

しかし、社会の発展で、我慢の必要がなくなってきた。
農業をやりたくないのに、やらなければならなかったと思っていたら、我慢してやっていたことだろう。
工場労働をしたくないのに、しないとならなかったと考えるなら、我慢してやっていただろう。
やりたくないことをやることが、我慢なら、やりたいことができる状況であれば、我慢は不要である。

今、我慢は不要で、したいことができるようになった。コンプライアンスは必要。

そうすると、日本の辞書から「我慢」という言葉が、消えてなくなる日が、来るかもしれない。

敢えて残すとしても、
「我慢:前近代、ないし、近代の社会の大部分、また、21世紀初頭のにおいての一部の人々の社会活動、特に職業行動において、自己を押し殺して、心情を表明し、活動を行っていたこと。また、その心情。美徳とみなされることで、その促進を図り、共同幻想として互いに共通して持っているかのように強制的に求めていた。時の階層上位者によって、組織統率の目的のために利活用されていた概念。21世紀初頭まで、中間層を中心に主に信望されていたが、その信望自体も、まさにその『我慢』によって自己に言い聞かせていたもの。21世紀初頭途中から、一定の個々人の意識の変化と個性重視の価値観の萌芽によって、我慢の効果、有用性が認められないとの認識が広がり、無用の概念と認知され始めた。過去の生産体系、特に日本社会の生産体系においては、労働者の行動動因の主たるものとして、心理的に訴えかけることによって、体系の維持を図った。高度経済成長の進展に寄与したと考えられる概念。信望する人間が減少したきっかけは、『我慢』の投入量の割に、生産性が上がらないことが認識され始めたことが主にある。この元来無理のある信条を人々に強制するには、階層機構とそれを管理する無謬性に基づく絶対者の存在を想定していたが、絶対者が存在しえないことと、階層機構による社会・経済体制の非効率性と非合理性が認識され、そしてその機能不全と病理、社会不安が増大したことから、根本を支えてきたその一大要因と判断され、人々、特に労働者の基本信念としては効率性を妨げるものと判断されて、次第に消失していった。ただし、信望して、自己の行動動因としている人々も一部いる。」

という感じ。

スポーツなどで、見せる時に、「あれだけできるんなら、我慢ができるってことだから、仕事も物事も我慢してできるだろから、大丈夫だろうな」ってことで、評価されたりする部分が、少なからずあった時代が続いてきた。
それは、仕事も物事も、「嫌なもの、大変なもの」っていう前提に基づくものである。
しかし、仕事も物事も大変でない、大変でなくなるっていう環境になったら、我慢の意義はなくなる。
ただ、単純にスポーツの素晴らしさを見て感動したりするのは、エンタテインメントとしては、鑑賞の対象となり得るので、価値はある。