アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

頑張らなくても、愛されるかの実験!

頑張らないと、また、仕事とか日常のことがいろいろとできないと、愛されるべきではないと思っていた。
それで、確かに頑張って、一通りできるようになった。また、できると自信を持てるようになった。
今は、安心しているところがある。
でも、振り返ってみたら、できると思えるようになったからといって、常に楽しいか、安心かといったら、そうではなかった部分があった。むしろ大変さはあった。
つまり、結論は、頑張っても、できるようになっても、安心と幸せは確定、保証されたわけではなかったということだった。
本当は、最初から、分かっていた。
頑張ったら、認めてあげる、という親に、頑張ってからじゃなくて、今、認めて!と思ったし、言った。だけど、親は意味がわからなかったのか、自身の話を親もやはり聴いて欲しかったのか、今認めて!は通じなかった。
それでも、気楽にいることもできたし、今認めてもらわないと困るなぁとは確信があったが、年が若かったのもあるしで、そこで私は一つ企図したことを覚えている。「頑張ってできるようになって、そして、認められて、それで、自分の欲しい幸せが来るかな?試してみよう。論理で親が言ってくるなら
実際に自分の人生と時間と労力を使ってどうなるか、論証できるか、試してみよう」と。
それもそもそもムダで遠回りなのは、その若い時も承知していた。そう思っていた。でも、その時は、そうせざるを得なかった。
それで結論は、頑張っても、頑張らなくても、自分の幸せには関係ないという思いだった。
頑張って得たことといえば、それが分かったということ位。
でも、まあいい。
じゃあ、みんな、頑張ってその結論を自分で導いて、結論付けなければならないかといったら、それはムダ骨だ。
ここでいう頑張るというのは、親の考える「頑張り」のことである。
それが、たまたま自分の望むものと偶然一緒なら、頑張りは、甲斐がある部分があるかもしれないが、(それでも人に言われてやるのでは意味がないが)一緒とは限らない。むしろ一致するほうがまずないだろう。だから、頑張って得たこと、それ自体は望むものではない。ただ、「頑張りは肥やしになっている」と一面でみなすことは、前向きになれるなら、意味がある見方ではある。
頑張って得たこと、知識が、自分の望むこと、やりたいこととベクトルが全然違うなら、その知識は何の意味もない、それ位に考えたほうがいい。
あくまで、自分のやりたいことは、自分が心からそう望むものごとなのだから。
結論。頑張ることそれ自体には意味はない。
やりたいことをやってそれに対して返ってくるもの。それが、自分自身にとって、意味があるものである。やっぱり、やりたいこと、好きなことをやらなければいけない。

人は今までの自分を見て、我慢してたのを見てたかもしれない。しかし、その人が、こちらのことを四六時中考えているだろうか?
まあ、会ったら、いつも通りのパターンを想像して接してくるだろう。
そこで、自分自身を優先する自分にこちらが急に変わっても、相手はいつもと違うと感じるだろうが、言い訳すらする必要はない。
「これ、やりたい。以上。」
「あ、そう」
それで終わりである。
向こうは向こうで考えるだろう。
頭も心もあるし、大人なんだから。
人の人生観は、こちらの責任ではない。
それを教えたりするのは、おこがましいというものだ。まずは、自分が幸せになろう。それで、真髄を教えて、と頼まれたら、教えてあげてもいいだろう。その時は、こちらも感謝されるだろう。