アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

特別扱いされることは安心感になるか?後ろめたくないか?

私は、正直、特別扱いされたいと思っている。
それもこれも、家が特別な家に生まれたからだと思っているからである。正確には、そう思わされてきた、と思ってきた。
特別な家に生まれたことで、自分に誇りがある、とか、自分に自信があるということは、その一点のみではそれなりに前向きなことである。しかし、特別な家だから、という論理らしいが、親や祖父母から、生き方を期待されたり、強制されたりすることは負担である。
私の中では、自信もあったが、負担もあった。
その負担は、自分にとっては、降って湧いたようなものであり、我慢の割には割に合わないと感じてきた。
そう感じて、捉えてきたとき、自分の中にあったのが、我慢している見返りに、特別扱いされないと割に合わないという感であった。
特別なんだから、我慢しなきゃならないんなら、我慢していることの見返りとして、特別であることの恩恵が、普通以上になければならないという気持ちである。自分としては、そんな取り引きみたいな条件つきの自己犠牲の対価の優越感など、欲しくはなかったのだが。ただ、単に楽しくいたいだけだったのだが。生まれながらにそんなことを計算している子どもはいない。まぁ、親達もそこまで子どものほうが考えてるとは思ってこなかっただろうが。
普通以上であるのは多少前向きさがあるようでいいとしても、それが我慢や無理をしていることと引き換えであるとしたら、それは、無理があるし、周りから浮く。そもそも、普通って何?ってこともあるけど。
だから、特別だって理由で我慢をしているのだから、みんなとは違う、特別なんだと思ってなきゃならない、特別だと思われなきゃならない、そして、特別であることで、普通より、当然メリット・幸せがなければならない、という思いがあったのだと思う。屈折している。

そして、自分は、その無理さ、歪み、不自然さ、苦しさに、自分で気付いている。
そして、接する人にも、不自然さが伝わるだろう、自分は違うという自己意識が相手に伝わってしまうだろうと自分の中で個人的に思っている。
だから、今までは、人が先にこっちを勝手に判断して、嫌だとか、違和感を勝手に感じるのではないかと思っていた。疑心暗鬼になっていた。
しかし、よく考えたら、というか、振り返って思い出してみたら、いつも、人と顔を合わせた時、こっちが先に顔を逸らしていたことに今、気が付いた。勝手に、「多分、俺に不自然さを感じるだろうな」、「ムッとしてると感じるだろうな」ってな具合に、先走って、勘ぐっていた。
だから、気づかれて相手に言われてしまう前に、先に自分から、勝手に目を逸らすのである。いわば、自分が勝手に諦めていたのである。なんか相手がよく目を逸らすなぁと思っていたら、自分が一番先に、勝手に諦めて目を逸らしていたからであり、相手はその写し鏡であるだけなのである。

接する人でも、店でも、面と向かった人は、こっちを見てくれる。疑うわけではなく、見てくれる。その時は、自分を見てくれているのである。


結局、自己評価は高いのだが、頑張って我慢して自己評価を高めたと思っているから、他の人よりもより評価が高いべきだっていう意識があり、そう見られたいという期待があるが、でも、同時にそれに不自然さをも感じていたのだ。

安心感がなくて、必死だったのは自分だったのだ。必死になって認めて貰おうとしてたのは、自分であり、それは、みんなと同じように溶け込み、認められ、安心感と普通の自信が欲しかっただけなのかもしれない。

あと日本人はもっと店でお金を払いやりとりをするときに、店の人はフランクになっていい。お客も。
店の人としては、払って貰うかわりに、心も取り引きとして、下手に出るなど、ある意味犠牲を払う姿勢をみせ、それを客は横柄に受け取る場合もあるし、自然に受け取る人もいるし、逆に気を遣ってしまう人もいる。みんながみんな、自然に受け取ればいいが、横柄に受け取ったり、気を遣うパターンもある。みんな、自然に受け取ったとしても、それでも店の人は、ずっと下手に出るなど無理をしなければならないのか?
そんなことに縛られないで、フランクにお互いすればいいのではないか?
客だけが偉いのではなく、商品の交換なのだから、対等なのだ。そうすれば気持ちをお互い楽にできると思う。無理は続かない。

因みに、私の家がそんなに特別な家かというと、確かに周りの地域では、古い旧家の流れであるが、特段きわだっているわけではない。「普通」の家だ。
でも、自分の毎日の幸せと楽しさは、家とか、家系とは全く別であり、何の関係もない。
自分が幸せならば、幸せなのだ。
仮に、特別だといっても、人にとってはそんなこと「だから?」っていうだけなのだ。ソレで終わりである。そんな一瞬のことのために、ずっと威張るのはそれこそ、「労多くして益少なし」、ではないか?相手はすぐ忘れて、自分のやることをやろうとする。みんな自分の生活があるのだ。

店や、人、偶然会う人も含めて、自分を待っている訳ではないし、こちらを特別扱いするためにそこにいる訳ではない。
でも、その時は、自分を見てくれるし、それにただ、全身全霊で味わい、素直に嬉しくなればいいだけなのだ。