アタマの中に花咲かせよう!

ハッピーになる考え方について書きます

サラリーマンになるための訓練?

みんな、スタバとかで勉強してるけど、労働者になるための勉強でしょ?
何になるの?
つまり、従業員になるための努力という不毛なもの。せいぜい生涯年収な頭打ちがあり、3億円くらいだろう。これからはサラリーマン搾取も税制改正で進み、手取りはさらに減るだろう。
時間のムダ。
だったら、起業したほうがいい。

ビジネスオーナーも社会に適応したい

ビジネスオーナーは、多数派とは考え方、生き方が違うが、人や社会に適応したいのは、多数派と同じである。ただ、その適応の仕方が、みんなと同調というのではなく、みんなに自分の提供するビジネスで喜んでもらうという適応の仕方になるという点で違う。

世の中には二種類のタイプの人間しかいない

世の中には、色々な職業があるように見える。
確かにいろいろある。
でも、大別すると二種類のタイプの人しかいない。
ビジネスオーナーと従業員である。
もちろん従業員には、副社長からパートまでピンキリいる。しかし、従業員は従業員だ。
対して、ビジネスオーナーは、一人でやってようと、従業員を多く抱えていようと、自分が主体でビジネスをしており、ビジネスを所有している。人のいうことに従うというよりも、人に言うことをきかせるほうだし、服従しておらず精神的自由がある。
そういう意味で、世の中には、少数の精神的自由のあるビジネスオーナーと働かされている多数派の従業員タイプがいる。だいたいどちらかに大別される。だから二種類の人間しかいない。

買い物の場を提供する

人は、仕事をすることを通してと、買い物をすることを通して、主に社会に参加している実感を得ていると思う。
他に趣味やボランティアなどもあげられるかもしれないが、主なのは仕事と買い物だろう。
そこで気づくのは、ビジネスをするなら、そういう人の特徴に目をつけて、買い物をする機会を作ってあげることだ。つまり、買い物という社会参加の方法、場を提供することだ。
具体的には、みなが欲しいもの、買い物を楽しめるものを提供する店を作ることだ。
それがビジネスだろう。

紙での勉強?

紙で勉強するということ自体があり得ない。
当たり前に紙で勉強という文化があるが、紙で分かることは限られている。
紙で読んで何が分かるのだろう。
実際にやってみることでしか、身につかない。
それを分かった上で、補完的に紙に書かれた文字を活用してもいい。でも紙に書かれた文字の「教材」だけが、全てだと考えると、とんでもない勘違いになる。
紙で勉強する文化の偏った弊害は、完璧主義になってしまうことだ。
完璧に理解しようとしても、紙ではそもそも無理だし、できるようには全くならない。やってみて軌道修正していくことでしか、ものごとは体得できない。そもそも紙で勉強する文化は、一斉に、文字や計算方法(そろばん)をまとめて多くの子供たちに教えるための効率的な方法として、生まれたものだと思う。
それを分からないで、いまだに一斉授業の紙に書かれた文字での勉強にこだわっていて、それがまあそんなに疲れない(座ってる受身だから)からといって、受けてればいいやみたいなのは、安易でしかない。

義理と好きは真逆。テクニックはいらない。

義理で人と付き合うのと好きな人と付き合うのは、真逆である。
好きな人には共感できるが、義理では好きとはいえない。
真逆だ。
好きで共感できれば、その人のSNSなどにイイねするが、好きでもない義理の人には、イイねはできない。しようと思わない。
義理で付き合うこともできるが、無理があり、ストレスでしかない。
逆に好きな人とは、付き合うことは楽しい。
ストレスがない。
では、好きな人とはどんな人かというと、多分、誰でも好きなのは、楽しく生きている人だろう。
何やってても別に構わないのだろうが、楽しく生きている人。楽しい人とは、その人といると楽しい人。話すと楽しい人。義理じゃなく、いいなって思える毎日、仕事を明るく楽しくしている人。そこに人は惹かれる。
義理で好きとは、人というものは人に言えないのだ。だからって好きと言ってもらえそうなことを無理をしてやろうとしても、ダメだろう。
人は人のことを分かるものなのだ。
ごまかしようはない。
逆に、好きなことに忠実なら、自分が楽しくいられるし、楽しく生きていることが、人もすぐ分かるだろう。
だから、自分が好きなことをやればいい。
ただ、それが、人との間のなかで、交流とか楽しいやりとりを生むもの、楽しそうな雰囲気のもの。そういうものに惹かれる。ただただ単純。
それを、無理して頑張るとか、義理でやるとか、そういうのは、人は引く、近寄らない。
人間は感情の生き物だ。
感情をそのまま出さなかったら、いつ、どこで感情を出すのか。
自分が思ったこと、感じたことを表さなくて、誰が代わりに表してくれるのか。
カッコつけるのが、目的ではない。
演じることが、人生になってしまっては、自分の本心の人生ではない。
何を考えても、無理して人に合わせてたりしてるうちは、結局、人に合わせてるだけで、それで悩んでるだけでしかない。
演技したり、思わせぶりだったりは、他人の反応に依存してるだけでしかない。本心ではない。
本心で生きていられたら、それが本心の生き方。
金、経済的充実が目的ですらない。
本心で毎日を過ごして、本心で人と関わって、本心で付き合えれば、人と関係が築けると思う。
関係が築けるとは、友達になるということだ。
友達とは、親や学校がいう友達ではない。
それもそうかもしれないが、本心を出し合える間柄ということだ。
演技をして何になるのか?
友達になれば、自分の店なり、ビジネスなりを助けてくれる。
人のつながりができる。
それは、結局は経済的充実にもつながるかもしれない。その楽しい在り方での経済的充実こそ、ずっと続けられるものではないか。
見栄も張らなくていいし、演技もしなくていいし、人に合わせなくてもいいし、自分を犠牲にしなくてもいい。
自分こそが自分の好きなことを自分にさせてあげなければ、誰が自分の好きなことをさせてくれるのか?
好きなことをしている人のことは、みんなすぐ分かるものだ。楽しくやってるんだな、と。

人の目じゃなく自分主体に楽しむ

男は例えば女性にすごいと思われたかったりして、自分の在り方を演ずる。仕事ができる風だったり演ずる。しかし、女性だって自分のことで精いっぱいで、他人をいちいちすごいとかは思ったりしない。そこまで女性は見てない。
だから、すごいと思われるように演ずること自体に意味はない。
それより、自分が楽しく笑顔でいられることのほうが大事だろう。そこにこそ共感は生まれる。
こう思われるだろうなとか、思わせようとするのではなくて、真逆に自分が自分を楽しむということこそが、かえって他人、特に女性からみて共感と友好のきっかけになるのだと思う。